公正世界仮説(公正世界信念)のやっかいさ

誰も自分が今住んでいる世界を悪い世界だとは認識したくない。

例えば、いじめやレイプ事件において被害者側にも問題があったとする言説はそのような心理が働いた結果だろう。いじめやレイプ事件においては、そのような事件に遭遇した被害者側にも落ち度があり、責任があるのではないかという意見は今でも見受けられる。例えば、以下のようなものだ。

”いじめに遭う奴はそもそもいじめられるくらい性格が変な奴が多い。”

”レイプされる人は露出度が高く、生意気な恰好をしていたのが悪い。”

”危険な夜道に一人で歩くのは警戒心が足りないし、レイプされる側にも責任はある。”

しかし性格が変だろうが、生意気だと思われるような恰好をしてようが、警戒心に欠けていようが、それらは加害者の加害行為の悪質さを減ずる理由にはならない。

無論、既に事件に遭った被害者を責める必要もどこにもない。

その点において、このような論法は虚偽である。

にもかかわらず、この手の論に説得されてしまう人間が存在するのは、多くの人間が自分の住んでいる世界を公正だと思う心理傾向を備えているからである。その結果、世界で起こる理不尽の全てを妥当な結果として受け入れようとする心理が発生する。

そのような心理は、幸せな人間は良い人間であり、不幸な事が起きた人間は悪い人間であるという予測を成り立たせてしまう。すなわち、不幸に遭った人間を不幸に遭うべき悪人として認識する傾向を生み出すである。

”あいつは悪い人間だからあんな目に遭うんだよ。ざまぁみろ。”
思わずそう言いたくなる心理的傾向を人は備えているのである。
そうした心理的な現象は、公正世界仮説、公正世界信念、あるいは公正世界誤謬と呼ばれている。